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東京高等裁判所 昭和54年(う)698号 判決 1979年8月14日

被告人 石川新司

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金一〇万円に処する。

右の罰金を完納することができないときは、二〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、東京高等検察庁検察官加藤泰也が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人横山唯志が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。

控訴趣意第二(事実誤認の主張)について

所論は、多岐にわたるが、要するに、原判決は、本件は交差点入口の停止線外側端に赤信号によつて停止していた被告人運転の大型乗用自動車(バス、以下被告人車と略称する)とその前方、約一メートルの間隔を置いて停車していた河村二三比己の運転する普通乗用自動車(タクシー、以下河村車と略称する)との間を通り抜けた兄の後を追つて被害者(当時二歳の女児)が既に青信号になつて動き出した被告人車の前に走り込んだため被告人においてこれを発見できないまゝ自車を被害者に衝突させた旨認定するのであるが、原判決には右衝突地点、事故前の停止時における被告人車と河村車との車間距離、事故発生時における被告人車と被害者との位置関係、被告人の本件発進時における安全確認義務の履行の有無など被告人の過失認定の基礎をなす各事実について誤認があり、その結果、被告人は発進時にアンダーミラーにより自車と河村車の間隙を横断しようとした被害者を十分確認できた筈であり、従つて被告人には発進に際し自車直前及びその左右の安全確認を怠つた過失があるのに、原判決はその過失を否定するに至つたものであり、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで以下、原審で取調べた証拠に当審における事実取調の結果をも加えて、所論指摘の諸点について検討する。

1  原判決は、被告人車が河村車に続き約一メートルの間隔を置いて本件交差点手前の停止線付近で停止したこと、及びその後対面信号機の信号が青に変り河村車が発進したのに続いて被告人車も発進したところ、被害者が駆け足で被告人車の前を右から左に通り抜けようと入り込んだため被告人車が約二メートル前進した地点で被害者と衝突した旨認定しているのであるが、まず右の車間距離については、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書中並びに原審公判廷における供述中に、それが一メートル位であつたと思う旨の供述がみられるところ、その供述自体ややあいまいであるのみならず、被告人は停止中主として対面信号機の信号に注意していて、自車の前を当時四歳の被害者の兄山崎博正が通過したのを認識していないことを自認しているのであつて、右車間距離についての供述も確かな認識に基づくものとは認め難く、一方右河村は原審公判廷において、バツクミラーによつてみたところでは、二メートル以上空いていたと思う旨証言しているのであつて、前記山崎博正が格別恐れを感じた気配もなく両車間を通過していつていることなどをも併せ考えると、その車間距離は、少くとも二メートル位はあつたと認めるのが相当であり、原判決のこの点の認定には誤りがあるというべきである。

更に原判決は、被告人車が発進し約二メートル前進した地点で被害者と衝突したものとし、その証拠として右河村の原審証言及び同人の司法警察員に対する供述調書並びに司法巡査作成の第一回実況見分調書を挙げているが、同実況見分調書添付の現場見取図に被告人の指示によるとして記載された衝突地点は、同様の指示による赤信号により停車していた被告人車の先端中央部分に一致していることからもいえるように、右各証拠によつては被告人車が約二メートル前進して衝突したと認定することは到底困難であり、被告人の司法警察員に対する供述調書、右実況見分調書に当審で取調べたニツサンデイーゼルバスカタログ写を併せ検討すると、被告人が発進後間もなくして被告人車の車体前面から一・八五メートル後方の右前輪が何物かに乗り上げたと感じた地点即ち被害者を轢過した地点が被告人車の停止していた位置から約二メートルのところであることが認められるから、原判決は衝突地点と轢過地点とを混同した疑いが強く、なお衝突直前の被害者を現認している右河村の原審証言や供述調書の記載にも照すと、被告人車は発進直後その車体前部中央ナンバープレート付近で被害者と衝突したことが明らかであり、約二メートル前進して衝突したとの原判決の認定は誤りと認められる。そして被告人の検察官に対する供述調書によれば、被告人は「信号が青に変つたので最初に右前のバツク(サイド)ミラーを見るとともに、ギヤーをセカンドに入れ、すぐ前のタクシーを見ると発進したのが目に入り、その目をすぐ左前のバツクミラーにやり心もち右にハンドルを切りぎみに出た」ことが認められ、対面信号が青になつて被告人車が発進するまで僅かながら時間の経過があり、また前記河村の原審証言によれば、同人が「青信号で発進直後ルームミラーで見ると、女の子がバスの進行方向に向つて車体の右端とナンバープレートの中間にいた」ことが明らかであり、前示の衝突地点及び当時二歳の被害者の駈け足の速度とを併せ考慮すると、被害者は被告人車の対面信号が青に変る頃既に被告人車の右端近くに来ていたと認められ、被告人車が前進を始めてからその前方に被害者が駈け込んで来たとする原判決の認定もまた誤りといわなければならない。

2  ところで原判決は、前示のように被害者が被告人車の発進後その前方に駈け込んで来たとし、被告人は発進前に自車の左右等の安全を確認しているから被害者を発見しなかつたとしても発進時の安全確認義務は尽くしている旨判示しているが、原審において取調べた各証拠なかんずく司法巡査守重睦夫外一名作成の昭和五二年一二月一八日付実況見分調書、司法警察員小林忠男作成の同年五月二二日付実況見分調書及び同年一二月一六日付捜査報告書、山崎博正及び河村二三比己の司法警察員に対する各供述調書、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並びに原審第五回公判調書中の被告人の供述記載部分等に徴すると、被告人は、河村車の後方に停車し、同車の後部窓ガラスに貼られてあつた広告の文字を少し読んだ後、交差点の対面信号機の信号を注視していてそれが青色に変つたのを確認して後、前示のように右及び左のバツクミラーを見たりして発進したこと、発進直前に当時四歳の前記山崎博正が被告人車の直前を横断しているのにその姿を全く認めていないこと、当時二歳で身長約八〇センチメートルの被害者はその発進直前に被告人車の右方からその前方へ駈け足で進んできたものであること、従つて被告人が発進直前にその車の右方及び前方の安全を確認する措置をとつていたならば、肉眼によつても被害者の駈けてくる姿を認め得たのではないかと考えられるし、ことに発車に際しサイドミラーだけでなくアンダーミラーをも注視したならば、それによつて被害者に対する死角を完全になくして、その姿を確実に把えることができたこと、しかるに右の発車に際し被告人がアンダーミラーを全く見なかつたこと、以上の事実を認めることができ、右認定を覆えすに足る特段の証拠はない。そして、対面信号の赤色表示に従い交差点入口停止線手前で停車した者が、同信号青の表示によつて発進するに当つては横断者の有無等左右、前方の安全を確認すべき義務のあることはいうまでもないから、確認し得た筈の被害者に気付かず発進した被告人は右注意義務を十分尽くしたとは到底いえず、この点について右義務を尽し被告人に過失がないとした原判決には事実の誤認があり、その誤りは犯罪の成否を左右すべき重大な事項に関するから、判決に影響を及ぼすことは明らかである。

なお前記各証拠に照らすと、本件事故現場は複雑な形態の交差点で交通事故防止のためには更に適当な横断歩道あるいは横断歩道橋の設置が検討されてしかるべき場所と思われる箇所で、横断歩道等がすぐ近くになく、現実には横断歩道の表示はないものゝ通常それが設けられる場所に相応する部分の歩車道間のガードレールが取払われているため、歩行者ことに子供達が同所を横断することは珍らしくなく、長年バス運転手をして同所をしばしば走行し時に横断中の歩行者を現認したこともある被告人にとつて、本件被害者のような子供の横断がありうることは十分予測できたものと認めるに十分であり、被告人がそのような横断歩行者のあることを予測することはできなかつたとの事情もなく、その他当審における事実取調の結果に徴しても被告人の過失を否定した原判決の認定を支持しうる理由は見出し難い。

よつて原判決は、上記の事実誤認によつて破棄を免れないから、控訴趣意第三の法令適用の誤りの主張についての判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条によつて原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い、当裁判所において直ちに次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五一年一二月一八日午後三時一〇分ころ、業務として大型乗用自動車(バス)を運転し、東京都昭島市玉川町一丁目二番七号先の交通整理の行われている交差点を東中神駅方面から青梅線方面に向かい左折進行するため、同交差点入口停止線手前で赤色の対面信号に従つて一時停止をし、同信号が青色に変るのを待つて前車に続いて発進するにあたり、同所が交差点の入口であり、正規の横断歩道が離れているため、同所には横断歩道は設けられていないものゝ横断する歩行者も少なくなく、かねてこれを現認したこともあり、自車の前部を左右に横断する歩行者のあることが十分予測できたのであるから、肉眼のみならず、自車のサイドミラーやアンダーミラーを見てその前面、左右に対する死角を解消して、横断歩行者の有無及びその安全を確認して発進すべき業務上の注意義務があるのに、対面信号機の信号が青色に変ると肉眼と左右サイドミラーで前方及び左右後方を一べつしたゞけでアンダーミラーによる確認も怠り、自車前面における横断歩行者の有無及びその安全を十分確認しないまま漫然と発進した過失により、折から被告人車の右方より左方に向かつて横断すべくその直前を駈け足で横断していた山崎理恵(当時二歳)に気づかず、同女に自車前部中央付近を衝突させて転倒させ、よつて同児に入院加療約二か月間を要する骨盤骨折等の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の本件所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するところ、本件事故現場の特異な道路形態、被告人の過失の程度、被害者の危険な行動等諸般の情状に照し、所定刑中罰金刑を選択し、その所定罰金額の範囲内で被告人を罰金一〇万円に処し、刑法一八条により右の罰金を完納することができないときは二〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審及び当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文により全部被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 千葉和郎 永井登志彦 中野保昭)

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